やはり、N氏が以前に住んでいた社宅での出来事です。
“あの音”に気付いてからというもの、頻繁に様々な現象が起きるようになりました。
その度に私は“気付かない振り”を決め込んでいたのですが…。
その日は土曜日。
いつものように私はN氏の部屋で過ごそうと、その社宅に向かいました。
冬の寒い日。
お鍋と日本酒で談笑し、2人でシングルの布団で眠る事になりました。
小さな布団で、2人で丸まって安らかな眠りへ。
そして、夜明けがやってきた、その時です。
不意に目が覚めました。
そして、押し寄せる“冬の寒さ”とは全然違う、悪寒にも似た寒気。
無理やり急激に目覚めさせられたような感覚。
そして、ドライアイスの煙のように、私の頭上(ベランダ向き)から押し寄せる冷気。
それを確かめようと身体を動かそうとしても…動かない。
金縛りだ…。
ただ、いつもと違うのは…
目だけはどうにか動かす事が出来た事。
動かない身体の代わりに、必死で目を動かしてその“正体”を見極めるべく、ベランダへと目を遣りました。
私がもがいてる時、不意に頭上から小さく、コツ…コツ…という音が聞こえてきました。
軽い力で何かを叩くような、そんなほんの微かな音。
しかし、夜明けの住宅街では、そんな音すら鮮明に聞こえてきます。
やっとの思いで目を向ける事の出来た、部屋のベランダ。
カーテンは開けたままで眠りに就いてしまった、その窓の向こう…
“それ”は、骨と皮だけになる程に痩せ細った、女性の姿でした。
落ち窪んだ眼窩、頬骨だけの輪郭、そしてだらりと無造作に長く伸ばした髪。
彼女の着ている白いドレスは、裾がボロボロに切り裂かれていました。
そして、ベランダに立つその彼女は、筋張った腕で窓にへばり付きながら、窓を静かに叩いています。
ソノ ヘヤノ ナカニ イレテクダサイ …
さっきから聞こえていた、“コツ…コツ…”という音。
それは正しく、彼女が窓をノックする音でした。
彼女の唇は何も語りません。
ただ、落ち窪んだ目の向こう側、真っ黒な穴から何かを訴えてきます。
久々に視覚的恐怖を感じました。
彼女の様相も恐怖を呼び覚ますには充分でしたが、それ以上に私は感じ取っていたのです。
彼女の、渦巻く黒い思念を。
目を背け、動かない身体の自由を取り戻そうと躍起になっていた時。
ただならぬ気配を感じたのか、N氏が目を覚ましました。
そして、それと同時に彼女の姿も消え、私の身体も自由を取り戻しました。
夜明け前の薄暗い筈の空間。
その中で、何故彼女の姿だけがはっきりと見えたのか。
もしあの時、N氏が目覚めなかったら。
そして、私が気付かなかったら…。
彼女は何処から来て、何処へ向かったのでしょうか。